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吉野の桜

甲府から中央線で名古屋、まででました。八ヶ岳や中央アルプスの雪景色や桜や新緑でとても美しい車窓の景色が最高でした。その後はローカル線を乗り継いで、奈良までいきました。4月は関西に来なかったので奈良の春景色も見たかったのです。できれば吉野の桜も見たかったのです。ちょうど中千本が満開でした。山の一角が桜に覆われる美しさに見とれました。吉野は大海人の皇子が逃げ込んだり、南朝の舞台になったり、山とはいえ歴史が絡んだところですし、修行の中心だったりと思うと、不思議な感じです。それでも桜が咲きほこり、人々がひきつけられてくる。歴史と自然が綾なすところでした。

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センチメンタルジャーニー(2)

甲府に行って特に不思議に思い出したことは、甲府を出るときの思いです。母はとうとう甲府の気質に合いませんでした。その理由のひとつは気候が厳しかったのです。千葉に住んでいたので、温暖でした。甲府は盆地で冬寒く、夏暑かったのです。母は喘息を病み、糖尿病をもちました。あの頃の、日本は練炭と炭のコタツでした。姉の住んでいた市川市に移り住みたいと思っていました。父も最初は賛成していましたが、やがて山梨県に骨をうずめる覚悟が強くなったようです。気難しい人であり、理想も高かったのです。母との関係も難しくなっていきました。母は甲府を出ることはなんとなく幸せにつながるように思っていたのではないでしょうか?自由につながるような思いがあったことを思い出しました。父は障害を持つ子供の病院に仕事を変えてから変わったように思います。気難しい人だったのですが、優しい円満な人になったようです。このことは知りませんでした。甲府では、家族が一生懸命家庭を築こうとしていたことが今になってわかりました。子供の私は何も分からず、両親が仲良ければいいなと単純に思っていました。そんな子供時代でした。

センティメンタルジャーニー

人生解読ワークショップをひかえて、突然私が少女時代を過ごした、甲府に行きたくなりました。ずうっと思っていたのですが、これは良いチャンスと思い行ってきました。
私が住んでいた家はもちろんありませんでした。父の勤めていた病院の医師用の官舎でした。その代わり医師会館がたっていました。隣にあった赤線は少しその雰囲気を残していましたが普通の住宅地になっていました。よく買い物に行かされた穴切新道は穴切通りと名を少し変えていました。それがあまりに小さな通りなのでショックでした。その名のもとになっている穴切神社は大神社となり、昔の面影を少し残していました。国家開拓の神らしいのですが、スサノウも奉っていたので、出雲系なのかしらなどと思いました。宮司さんは、3ヶ月に赴任したそうでわからないと言われてしまいました。でも神楽の練習会などをやっていて活動があるようでうれしくなりました。
その夜は眠れませんでした。甲府で過ごしたころの自分の心や感情、父と母の葛藤などを思い出して、今の人生を考えたり不思議な思いや切ない感情が静まりませんでした。ちょっとしたセンチメンタルジャーニーでした。

ハレビさんのイニシエーション

今、次号のインナーライトディスカバリーにむけてハレビさんの自伝「カバリストの道」を翻訳しています。今回はハレビさんのイニシエーションについての章です。
ハレビさんは絵にも行き詰まり、小説にも行き詰まり、そのとき出会った建築家からウスペンスキーのグループに導かれたそうです。その魂の学校の紹介の授業に行って、求めていたものであったと確信して、その日は眠れなかったと書いています。ウスペンスキーの「軌跡を求めて」を夢中になって読んだそうです。とくにほとんどの人が白昼夢の中を生きているという言葉にに衝撃をうけ、その学校での自分の心を見つめるワークをを真剣にやったそうです。私がILCとカバラに出会ったときを懐かしく思い出しました。
ちょうど教師総会では過ぎ越しの祭りの真似事をするのですが、その題材にぴったりです。とても興味深いところなのでお読みください。